空が落ちるブログ

空が落ちても何もないよ

不必要なテキスト

不必要なテキストと言ってしまっては申し訳ないですが、世の中に数ある文章って大半は人生において全く必要のないテキストであることが多いですよね。活字中毒なのかよくわかりませんが文章あるととにかく読んでしまう僕のような人間にはこれほど辛いものはなくて、読んだ後になって「しまったー読むんじゃなかったー」なんてことはよくあるんですよ。

 

んでとにかくその不必要なテキストが非常に多いのがことはてなブログだったり2chまとめ記事だったりするんですよ。どちらも最近の時事ネタにそって話が展開されていたりして、その内容を知るのによかったり、一般人の意見を参考にできるので非常によい部分もあったりするんですよね。けれどもそれはあくまで「一般人」の意見であって、しかもそれも局所的につついた意見であったり、非常に傾いた意見であったりして、あとあとになってとか、全体を俯瞰して見てみると大した内容じゃないってことがよくあるんですよ。

 

さらには話の展開が不明瞭で、変に枕詞をつかったり、わかりやすいのかわかりにくいのかわからない比喩表現なんかも用いたりして、不用意にテキスト量を増やしているなんてことは往々にしてあるんですよ。

 

テキストを読むってのはある程度こちらとしても時間を使ってしまうもので、速読だったり流し読みなんかができるといいんですけれどもあいにくそんなスキルはないので無闇に時間が過ぎてたりするんですよね。

 

そうなると前述の通り「あーしまったー」なんてことになるってもんなんですよ。でも文章あると読んでしまうという性もあるんで、今後はそんなサイトを見ないっていう方向に行こうと思うんですけどなかなか難しいんですよね。世の中の人たちはどうしてるんですかね。

 

正直落とし所がみつからなくてこのテキストも不必要なテキストとなってるんですけれども、なんとなく自分の中で疑問として浮かんだのでこうしてテキストとして書き起こして、もしかしたらこれを読んだ人が「確かに最近無駄なテキストを読んで時間使ってしまっているな」と感じてもらえればこのテキストにも意味があったのではないかなと思います。

 

そうなると不必要なテキストなんていうのはなくて、ただただ効用が低いテキストってことになるのかもしれない。とにもかくにも自分のテキストの効用は低いので無駄にテキストを書き起こすことになりますが、それが何周かして自身のテキストの効用をあげる練習になるのではないかという意味を込めてこのテキストを残そうかと思います。

以上。

うちの新入社員は当たりハズレが毎年交互にくる

もうすぐ4月を迎えるとするとある程度の会社には新入社員が入ってくるわけで、どの会社でもその新入社員が使えるかどうかの見極め期間ってのがあると思う。この見極め期間っていうのは大抵の会社ではその会社の仕事ができるかどうかとかはあんまり関係がなくて「ごくごく当たり前ができるかどうか」っていう見極めの段階であったりする。あいさつができるか、時間を守れるか、約束を守れるか、嘘をつかないか。こういったところができないと特定のスキルがあっても会社からかなり浮くことになるので自己啓発本とかがよく売れる。こうした積み重ねで責任のある仕事を任せることができるようになっていくのかなと思う。

そういったところでいわゆるブラックと言われるような話としてはこの見極めの中に飲み会の幹事であったり、花見の場所取り、社員旅行の段取りといったところからサービス残業だとか就業時間前の清掃活動といったキリのないところまで手が及んでくる。

こうしたいわゆる雑用について大抵の自己啓発本だとそこに意味を見出すことで乗り越えようだとかそこで培う評価があとに作用するだとか書いてある。あながち間違ってないしそうだとも思うんだけど多分著者の意図とは外れてこの意味を間違って捉えてるような人もいる気がする。

とにかく雑用に意味を見出しすぎて肝心の仕事がおろそかになっていたり、自分がやっていたからという理由で後輩に強要したりする人がそうだと思う。

あくまで雑用は雑用であって過大に評価し過ぎるのもどうかと思う。よくあるのが「玄関の掃除」という雑用を押し付けられた人がそこに意味を見出して玄関だけでなく会社の周り全部を掃除したとする。当然その人の評価は上がるだろうし会社の周りを掃除することに意味はあると思う。けれども会社の周りを全部掃除することによって失った時間っていうのは少なからずあるはずだしそれが就業時間前の話であったら貴重な朝の時間を掃除にかけていることになる。そりゃ綺麗になれば気持ちいいけれどももっと有意義に時間を使える可能性もあるし、特にそれは人によって大きく変わる部分であると思う。だからこそこの意識をあまり新入社員に期待するのも無駄であって今後の会社の人間関係にも問題が生じるのではないかと思う。

とかくその玄関の掃除を新入社員がやるとしたらどうなるのかというとやはり玄関だけ掃除したのであれば今までの人は会社の周り全部をやっていたのにあいつはダメなやつだと烙印を押される。かといって会社の周り以上にやるとどんどんそれは負の遺産として残っていって今後の人が辛いだけ。雑用は雑用だから広げすぎることに意味はないと思う。

今の悟り世代っていうのはあまりにもサバサバしすぎてむしろ玄関掃除は就業時間中にやるべきですとはっきり言うかもしれないけれども当たり前にそれもダメなやつでこの辺のバランスをうまく取らないといけないなと思う。

かといってこの雑用の程度の問題ってのは新入社員の力一つでなんとかなるもんじゃないので実は先輩社員、特に今までその雑用に従事していた社員がしっかりとフォローに回ることがひいては会社がうまく回っていくためのことになるのではないかなと思う。

新入社員の発言力なんて当然微々たるものなので何を生意気言ってるんだってまたダメなパターンに入るから2年目、3年目の人がうまくこの雑用問題を軽くしていって欲しい。つまるところ最近の新入社員は雑用を全くやらないと怒るのではなく、引き継ぎのタイミングで雑用を軽くして、上司へのフォローをしっかりするのが大事なのではないかと。

玄関掃除を任された新入社員が玄関しか掃除をしないとなった場合、確かに先輩社員はそこに意味を見出して玄関だけでなく会社周りを頑張って掃除をしたかもしれない。けれども当初の指示は玄関の掃除ということだったことをしっかりと周りにフォローをして、決して俺は会社周りまでやっていたのにあいつはダメですねなんて敵に回らず、まあ元々玄関掃除ですから僕がおかしいんですよとフォローを入れるのがその新入社員のためになるのではないかなと思う。

時間が経つと当初の指示なんて忘れてるものだし特に雑用なんで上の人たちはあって当たり前だと感じてるから会社周りの掃除をしないことに苛立つかもしれない。けれどもある程度やってきた人が自分がただやってただけだよと改めて認識させてあげる。そうすることで新入社員の真の力が見極められると思う。

ここまでして新入社員が掃除なんて馬鹿らしいですとか言い始めたらダメな可能性が高いし、一方で自分から会社周りまで掃除をし始めたら認めていけばいいと思う。

最近の新入社員はダメだってのは何かフォローなく潰れていってるだけのような気がする。去年の自分はそんなフォローなんてなかったからフォローしなくてもいいというわけではなくて、むしろそれならばしっかりフォローをしてあげるのが先輩の務めなのではないかなと思う。

話ブレブレだけれども要は新入社員が使えないって場合はその前の先輩も総じてダメな可能性がありますよって話ですかね。
あとたまにうちの会社の新入社員は1年ごとに当たりハズレと交互に来てるってのをよく聞きますけどそれはハズレの方が状況をただリセットしてくれてるだけで当たりだと思ってる方もフォローしてないんでダメな可能性高いですよって話です。

就活解禁の前に

来る3月1日、世の大学3年生たちは就職解禁という大きな波が眼前にそびえたった。

「乗るしかない、このビッグウェーブに」

という気持ちでまさにみんながみんな就職活動という社畜への一歩を踏み出すのだろう。

そんななかで僕はどうしたかというと一歩前に「転職」という道を選んだのであった。思ったよりも簡単に決まってしまった転職。果たしてこれが天職となるのだろうか。点で働く気が無かったのに、気づけば転職支援サイトに登録をしており、展開の読めないまま、転職コンサルタントの言うままにエントリー。転職市場価値が落ちるという脅しにおびえてそのまま転職成功という道に進んでしまったのである。

「働きたくない。」

こんな気持ちを胸に面接では「御社で必ず活躍して見せます!」とキチョハナカンシャを前面に押し出したフレッシュ爽快レモン男児を演じてしまったのである。

まあ転職が決まって一番よかったのは心の余裕が生まれたというもので、自分は社会に属してるんだなという大きな安らぎを持ったことだとは思う。文面にもあふれだす大人の余裕というものが自身から満ち溢れている。まだ入社間も無いくせに「俺、会社ってものわかっちゃったぜ?」と謎の自身があふれるのも納得できる。働くということが社会的な安心感を与えるというものだろうか。とにもかくにもよかった。

逆に悪い点としては自身の中でぎすぎすとした毒々しいものが抜け切ってしまったことだろうか。まあこれはいずれ社会にまたもまれたときに生まれてくるものであるともいえる。あまりこれが出ないようにしたいものである。

更新頻度少なめなのは落ち着いた証拠です。

 

保育園と待機児童

保育園と待機児童の話は最近よく耳にするし興味深い話でもあります。といっても自分は財源がどうとか全国に待機児童が何人いるとか保育園がどんだけあるとか知っているわけでもないので全然詳しい話ができるわけじゃありません。感覚的に保育園が少ないなら作ればいいじゃんとかいう政治に無関心な輩です。

そんな自分にも保育園で勤めてる知り合い、いわゆる保育士の人と仲いいのでよく話をするんですけどまあ毎日子供と接することができて楽しい半面大変だとよく聞きます。まあ社会人なんてどこも大変なんでそりゃそうだよなあくらいの感覚で聞いてはいて、大抵の人もこんくらいの感覚しか持ち合わせてないのかなあと。でも実際問題この現場の声ってかなり重要な気がしますし、この想像以上に過酷な環境ってのは改善しないと保育園増やしたところでって話でもありますし、お金で解決すればいいって話でもないんではないかと思うところです。

お金というとかなり保育士の給料って安いですね。びっくりしました。大学卒業して会社に入った新卒の人間と短大を卒業してバリバリ活躍して何年か経ってる保育士って新卒の方が給料高いんですね。そりゃ会社にもよるでしょうけど一般の人が新卒給与20万円なんて言ってる人には想像のつかない話なのではないかと思います。とにかくかわいそうなくらい給料が低いなと思います。

んでたまにドキュメント番組とかで保育園の現状みたいなのが放送されるんですけどもああいうのを見て保育士の方々はかなり「ぬるい」と思うそうです。結構きつそうな現場の様子をやってるドキュメントだったんですけど、あそこはまだ人数がいるからいい方だよとか話すんです。保育士ってのは一人で見ることのできる子供の数って制限があって3歳の子は○人~○人ってなってるみたいです。この制限って一人の許容範囲をオーバーしないようにって制限だと思うんですけど、実際のところ基準自体がかなりカツカツで決められてるみたいでその数いっぱい見るってのは不可能に近いみたいです。

あとやっぱ保育園って地域差がかなり激しいみたいです。治安の悪いところだと子供が暴れまわったり、親関係のトラブルも多いんだとか。テレビでやってるところなんてぼっちゃんばっかりのところだからそういった問題はないでしょうし、子供自体もかなりおとなしいそうです。

お給料も低くて職場環境も劣悪だとそりゃ働きたい人ってのは少ないでしょうし、その中で子供が好きっていう理由で働ける人ってのはかなり尊敬できます。しかしこの尊敬できる人ってのが今世の中にどれだけあるかって話ですし、昔に比べて子供好きって人が少なくなっているような気もします。

といっても給料が高いからってやって欲しい仕事でもないですし、難しいところなのかなと思います。そういった意味で保育園を増やしたところで保育士がいるのか、給料をあげたところで問題が解決するのかって疑問はどうしても残るのかなとは思います。自分の中でどうした方がいいとか結論は決まってないですけどなんか賢い人がうまーく決めてほしいなと思います。

以上です。

平々凡々ライフタイムリスペクト

鬱の波がきた。きっついなあ。私の場合はかなり前職の時の光景がフラッシュバックするというものでまあ大したことではないはずなんだけどやはり忘れることのできない過去というものな気がする。
自身が今までの経験は全て今の自分を形成するって考えだからかこの過去ってものと決別できてない感じがする。実際のところもう一回くらい前職の人と話して優しい言葉をかけてもらって気をスッキリさせて欲しいと思うけどそんなに社会は甘くないらしく自分からそんな話を持ちかけるわけにはいかないのでこのモヤモヤした気持ちと一生付き合わなければならないのかと思う。まさにライフタイムリスペクト。
そんな時にあまり罪の意識を感じないようにするには自分は特別な存在ではないと思うことなのかなあと思ってきた。なんだかんだ自分は物語の主人公であり、花屋の店先に並んだ花のごとくどれもみんな綺麗なんだと言い聞かせてきたけどそれが最終的には重荷になってるのかなあと。
世の中のそういったプラスの言葉を間に受け過ぎてて、というか自分自身がかなり漫画の読みすぎというか御都合主義の虜になってて現実を直視できてなかったのかマイナスな実態を結局は見て見ぬフリができてなかったのかなと思う。
世の中が澄んだ水のごとくキレイであると錯覚して、汚い水には入ったつもりで眺めてただけだったのかなと。
そういう時に自分は、平々凡々な普通の一般人であり、特別な能力は一切なく、幻想殺しなんて持ち合わせてないから人並みの幸せを願うしかないのかなと思うといささか安心する。
ただこういう思考になると将来への希望的観測が一切なくなる。自分はこのまま現実を達観して眺めて平々凡々と自分が今まで蔑んでた未来のレールへの一本道をただダラダラ歩くのではないかと思う。
結局こうなるとまた気分は鬱々しくなってあんま考えないようにしようとするのもまた現実から逃げてるだけなように思えてデフレスパイラルのごとく、日経平均のごとく気分は下降してく。
僕の気持ちの金融緩和はどこにあるのだろうか。アベノミクスはあるのだろうか。三本の矢はどこにあるのだろうか。

追伸:今までポエミーな人を小バカにしておりましたが気分が鬱々しくなるとポエミーになることが判明しましたのでここにお詫び申し上げます。

車にカーテンつけてる人って絶対に・・・

車にカーテンつけてる人を見ました。私の勝手な先入観というか偏見なんですが、車にカーテンつけてる人って100%車の中で男女のエンジンをガンガンふかしてる人なんだと思うんですよね。もうこれ私の勝手な偏見だということは十分自覚してるんですが、ただただ自分だけ変だというのも癪なんで、いっそのこともうこれは偏見ではなくて世間一般の常識としてなってもらいたいなと思うんですよ。

逆にカーインテリアを手掛ける会社も車用カーテンを売り出す時に「これであなたも車の中でもアクセルいっぱい!」とかガンガン押していけばいいと思うんですよね。ミルク用カーテンも一緒に販売すればいいですし。

そもそもカーテンというのは古代エジプトの時代からあるものなんですよ。どこに取り付けられていたものかというとずばり天蓋ベッドという、あのお姫様とかのゴージャスなベッドなんですよ。なんでついていたかっていうとやっぱりお姫様と王子様がガンガンエンジンふかすためという明らかなものなんですよね。

まあ時代も進んで今では窓につけるのが一般的で理由としては防犯対策というのです。夜寝るときにカーテンを締めることで泥棒さんから中を見えないようにするんですよね。多分車にカーテンつけてる人もこういう理由とかいう人もいるかと思うんですけど果たして本当にそうなんですかね。というのも私は普通に駐車場に止まっている車のカーテンが閉まってるの見たことないんですよね。お前カーテンつけてるのに閉めてないのかよ!って思わずつっこみたくなるんですけどやっぱりそう考えると防犯対策というつもりはないのかなあと。

ちなみに最近ではカーテンが防火対策になったりもするそうです。家の中で火事があった時に燃えにくいカーテンを扱うことでよそへ火が移らないようになっているそうです。アツアツの男女にはもってこいですね。

日本ではカーテンの文化が広まったのは江戸時代の時らしくて、そもそもそれまではふすまとか簾とかがあってそこまで必要とされてなかったらしいです。まあ見られて困るものならそもそも蓋をすればいいですからね。だから普通に中を見られたくないだけだったらスモークとかで十分効果を発揮すると思うんですよ。でもカーテンを利用する人ってのはスモークだけじゃ不安で絶対的に中を見られたくない人なんだと思うんですよね。あとはおしゃれな雰囲気を醸し出したい人?

もうそんなん絶対ヤリ○ンじゃないですかと。絶対「車にカーテンつけてる人=ヤリ○ン」でいいと思うんですよ。早く世間一般的にこういった認識になればいいと思います。逆にこの記事を読んだ人はカーテンついてる車に乗ったら「このシート除菌してあるのかな」くらいに思った方がいいかもしれません。もしかしたら車特有のにおいじゃなくてチーズ臭とかするかもしれません。おそろしいですね。

ここまで書いてよくもまあゲスい話をここまでかけるなあと自分でも感心しています。まあそんなのばかりじゃだめだと思うんでカーテンみたいに綺麗に閉めようかと。

謎かけですね。

「カーテン」とかけて「ヤリ○ン」と解きます。

その心はどちらも「しゃこうせいが高い」でしょう。お後がよろしいようで。

腱鞘炎っぽくなりました。

なんか右手首がひたすら痛い。手をグーパーするのに痺れみたいな感覚がある。病院には行ってなくてまだ大丈夫だと思ってるけどいわゆる腱鞘炎っぽい。
ここのところずっとパソコンを触ってたからかと思う。ドライアイも目下進行中である。このままではいずれ俺は義手義眼の老人となってしまうかもしれない。なんだかそれもかっこいいが今後の生活を考えると大変である。
怪我や病気ってのは生活してる上ではつきものである。特に職業病なんて怖い。月9見ながらトラックの運ちゃんとかずっと続けるのきつそうだなあなんて思ってる。いつかはぎっくり腰なんかになって腰痛持ちの老人生活が待ってるんだろうなあとしみじみ思う。
こういうのはブルーカラー特有のものに思われるけど意外とホワイトカラーも危ないのかもしれない。SEなんかはずっとパソコンの前に座って失明するかもしれないし、金融マンだって日々のストレスで鬱になるかもしれない。
つまるところ職業病ってのはどの職業でもあるのかもしれない。ブルーカラーだろうとホワイトカラーだろうといつでもどこでも体をぶっ壊しかねる。ぶっ壊すと生活すらもぶっ壊される。サラリーマンは怪我や病気で首を切られる可能性がある。自営業も怪我や病気になってしまったら働けない。どっちも資産無しの老人生活が待っている。
怪我や病気にならないのがなりよりであるが、本当に怪我や病気にならないような生活なんてこの世にあるのだろうか。恐ろしいものだ。
さてさて、そんなことをいいながら私はニートである。職業自宅警備員である私は立派に腱鞘炎、ドライアイという病気にかかったのである。猫背も急激に進行して運動もしないものだから腰も重たい。ニートである自覚すら薄れてくる最悪な状態でもあり、いつの間にかプロニートになったのかもしれない。見える未来は義手義眼に腰痛持ちの資産無しである。