空が落ちるブログ

空が落ちても何もないよ

規制を受け入れず我々は表現の自由を求める。

規制とは・・・特定の目的の実現のために、許認可・介入・手続き・禁止などのルールを設け、物事を制限すること。

ということらしい。インターネットは規制がないから意味がある、規制されてしまったらインターネットの良さが損なわれてしまう。という話をよく聞く。そうなのだ。規制がないからこそ自由な表現ができて人と人の醜さが出る。こんなのに規制をするのはナンセンスだ。インターネットは汚れているから素晴らしいのだ。誰もが自由を望むのだ。

 

規制されると一部は端へ端へ追いやられる。最大の規制は18禁といわれるアダルトジャンルだ。アダルトビデオや有害図書、ポルノだったりアダルトゲームである。青少年の人格形成に有害である可能性があるため、18歳未満の人の目に入るようにしてはいけない。公共の場に出ることを許されない存在となった。こうしたアダルト業界は人々の需要があるにも関わらず、日の目を見ることができなくなった。一部ではアダルトなものは高尚であると主張する人もいるが、今の世の中ではどれだけ言っても無意味である。18禁はどこまでいっても18禁であり、表世界に出ないように推し量られている。

こうして表現の自由が規制されているのはアダルト業界な気がするが、実際に規制されているのは一般作家たちである。純愛小説やジュブナイル小説を書く人達はアダルトな表現ができないのである。こちらが表現を規制されているのである。アダルトな表現をしようとしたら18禁指定されて有害図書いきである。もちろん純愛小説にアダルト要素は必要ないという声はあるだろう。しかし現実の世界で純愛とSEXは切っても切れない関係にあるのではないだろうか?どこの世界にSEXがない世界があるのだろうか。万国共通である営みである。そしてそれは誰しもが悩みを抱える部分である。純愛小説にその部分の表現はできない。小説に登場する彼女がそこに大きな悩みを抱えており、それがいかに高尚な悩みであっても、多くの女性が共感するような悩みであっても一般小説では表現できない。ジェンダーの問題であったり体が成長しない子供の病気を語るときに、この問題を無視してよいはずがない。現実社会で絶対的に起きている問題なのである。

純愛小説家はなぜアダルト業界に入り込まないのだろう。もっと言えば作家はなぜアダルト業界で活躍しないのだろう。アダルト業界こそ表現の自由を最大限まで認められる場所である。誰しもが自由を求めているのではないのだろうか?それともただ押しやられた世界に入りたくないだけなのだろうか。アダルト業界をただのエロ、エロ、エロと考えているからだろうか。いや実際そうだろう。現状としてはアダルト業界なんてエロ、エロ、エロである。そんな世界に問題提起のために脚を踏み入れるのであれば、表現できないところは目をつむり、一般図書として出版したほうがいいということだろう。なんとかぎりぎりの範囲でやるしかない。それを多くの人に伝えるしかない。そういうことだろう。

本当にそれでいいのだろうか。人間は自由を求めているようで規制を求めているのだろうか。