空が落ちるブログ

空が落ちても何もないよ

キャラづくりの重要性

学生時代のキャラづくりの大切さについて提唱しようと思う。

キャラづくりというのは所謂「オバカキャラ」であったり「知的キャラ」であったり様々だ。中二病的な発想かもしれないがみなそれぞれキャラをつくる必要があると思う。というか大半の人はいつの間にかキャラが成立している。「天然キャラ」であったり「いじられキャラ」であったりだ。そしてそれは学生時代中はずっと変わらずにいる。

 

いじられキャラ」になってしまったやつは後悔の連続だろう。大学デビューなんてするやつは高校の時とのキャラチェンジを図ろうとする。まあしかし大抵は早々にキャラ崩壊を起こし、根のキャラが出てきて残念な結果となる。新たに「大学デビューを失敗したキャラ」なんて枠組みで見られたりもする。

といった感じである程度普通に生きていれば特段キャラづくりなんてせずともキャラなんて成立するものだ。しかしごくごくまれにキャラというキャラが成立せずに生きてくるやつがいる。全く分からないやつだ。ミステリアスというわけでもない。どこにスイッチがついてるかもよくわからないやつだ。特段コミュニケーションをとることができないというわけでもない。いわゆる普通なのだ。ニュートラルな存在のやつ。そういうやつがたまーにいる。

こういう学生時代にまったくと言っていいほどキャラづくりが行われなかったやつが後々になって困ってくる。


なぜかと言うと社会は役割を要求してくるからだ。まず会社に入れば、お前は営業、お前は総務、お前は生産管理といったように役割を要求する。それは学生時代のいきものがかりとか掲示がかりとかそんなちゃちなものではない。真剣に仕事として役割を要求してくる。

さらには社会は立ち位置さえも要求してくる。お前はどちらにつくのだ?みたいな派閥社会であったりもする。それはジャイアンとスネオどっちにつくんだい?みたいなちゃちな話ではない。島田派につくのか、石橋派につくのか、岡村派につくのか立ち位置を要求される。

こうしたことたちに答えはない。迷い、苦しみ、葛藤の日々がある。しかし、キャラづくりされたやつらには実は答えがあったりもする。

就職活動で「あなたはどういった学生生活を歩んできましたか?」というような質問がある。それはつまり「あなたはどういったキャラですか?」ということだ。友達との間で、ジャイアンとして生きて来ましたか?スネオとして取り巻きにいましたか?ドラえもんみたいに親友を助ける立ち位置でしたか?それとものびたみたいに使えないと罵られてきましたか?ということを聞かれているのだ。ここで最悪なのはのびたに聞こえるかもしれないがそうではない。のびたにはのびたのキャラがあり、社会ではそれが必要とされるのだ。一番問題なのはこの仲間にも入っていないモブキャラだ。出来杉くんや、ブタゴリラ以上に名前もあがらないようなモブキャラは社会に必要とされないのだ。それが学生時代にキャラづくりを全くと言っていいほどしてこなかったようなやつなのだ。


そんなやついないよ、みんな平等にキャラを持ってるよという人もいるかもしれない。そうであろう。実際にはそうであろう。しかし現実問題それに気付かなければ意味がない。自信を持ってこのキャラですと言えるようにならなければ社会においてキャスティングされないのである。学生の時にはクラスの30人の1人としてぎりぎりキャスティングされていたが、社会において会社の100人の1人にそんなモブを置いておくことができないのである。キャラづくりをしろ、それに限る。