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友達は「つくる」ものではなく「なる」ものという議論

友達は「つくる」ものではなく「なる」ものだって言葉があるじゃん。
ニュアンス的なものでもあると思うけど、いわゆる友達って言うのは「意識的」なものではなく「無意識」なものであるって意味だと思う。

 

「意識的」と「無意識」っていろんな場面で出てくる。スポーツだと相手の攻撃に対して「意識的」に反応する選手よりも「無意識」で反応する選手の方がスピードが速い。だから有利だって話がある。「体が自然と反応した」っていう言葉をホームランを打ったプロ野球選手が口にする。長年培ってきた「経験」から「自然と反応した。」ということだ。こんな「経験」は一般人にはない。少年野球をやってる子供がホームランを打って「自然と体が反応した」なんて言葉を口にしたら怖い。天才というよりも不気味だ。どこの誰がボールが来たら体が反応するような仕組みを組み入れたのか。少年野球の子供は「意識的」にホームランを打ったのだと思う。もちろんホームラン自体は意識的でないとは思う。「打とう、打とう」と意識してボールを意識して、バットを振って、それが結果としてホームランになったのだと思う。

体が無意識に反応するってのは人間が最初っから組み入れられてるっていうものもある。身の危険があったら無意識に体が縮こまるとかそうだ。目の前に思いっきりパンチが来たら目を瞑る。眼球を守るために自然と瞑るように仕組みが体に組み込まれている。だからこれは「無意識」だ。これを意識的にやってたら間に合わない。「あ、やべパンチが来た。」とか思ってるうちに眼球グシャだ。「かっけ」も無意識に足があがる仕組みだ。膝の下のあたりをたたくと勝手に足が上がるやつ。脊髄反射というらしい。脳で考えるよりも体が動くように仕組みができてる。これが「無意識」ってやつだ。

つまり「無意識」ってのは「経験」からくるものと元々の「仕組み」からくるものがあると思う。あとは人の三大欲求くらいか。食事と睡眠と性欲。自然とお腹がすくし、自然と眠くなる。そして自然と性欲を解消したくなる。人間に備わってるのはこの3つだ。まあこれも「仕組み」のうちの一つだろう。

話を戻すと友達は「つくる」ものではなく「なる」ものだって話。
「なる」ってことはつまり友達をつくる「経験」があるか「仕組み」があるってことだと思う。ここで俺の立ち位置を示しておくと、友達はつくるものであり、なるものであるってスタンス。友達はつくるだけでもないし、なるってだけでもない。そしてあくまで順序はつくるものであり、なるものであるってこと。

というのも人間が元々から友達という「仕組み」があるとは思えない。人間ってのは最終的に一人で生きてくものだと思うし、友達がいつしも最良の存在であるとも思えない。そんな「仕組み」があったら人間が成立していかないと思う。
だから最初はみんな友達を「つくる」。親や先生から「友達はできた?」というような質問で無意識の中で「友達はいないといけないものだ」という洗脳をする。そうして「意識的」に友達をつくろうとする。子供のころのことだから覚えてないのも無理はない。勝手に近くに存在している人を友達として定義付けしているだけの可能性もある。そうして「意識的」に友達をつくっていく。

すると友達という存在が社会で生きていく上で便利だと気付く時がある。便利という言葉はよくないかもしれない。しかし社会で生きていくのに友達は利用できるのである。寂しさを紛らわしてくれるし、欲求を満たしてくれたりもする。様々な場面で利用価値が生まれることに気づくのである。そうして意識的に友達をつくっていく。そうしたら後はその友達をつくった経験を生かして、どんどん友達をつくっていく。そのうち意識がなくなってく。自然と友達になっている。利用価値とか度外視で友達になってる。そういう人が友達は「なる」ものだとか言い出す。幼少期に友達をつくるという重要性に気付いたからだ。そういうことを忘れて友達に「なる」とか言い出す。

もしこの友達の利用価値に気付かなかったらどうだろうか。なんでも自分一人でものごとを解決できてしまったり、近く存在していた人に裏切られたり。自身で友達と定義づけていた人に裏切られたら友達の利用価値はなくなるのではないだろうか。そうすると友達を「つくる」という経験も得ることができずに、いつまで経っても定義だけの友達しかいなくなる。そんなの大人になっていけばお互いに定義だけだと気付いて離れてく。

そんな人に友達とは「なる」ものだって言ってもわかるはずがない。「つくる」経験もなければ「仕組み」は当然にない。

大人になって友達を「つくる」のは大変だ。みんな気付いてしまう。お互いの利用価値を互いに考えてしまう。自身でも気になってしまう。子供では目につかなかった人の嫌なところや、だめなところが目につく。ガバガバだった幼少の判断に比べて、遥かに洗練された判断をしてしまう。「仕組み」が出来上がってる人はこの部分をすっ飛ばしている。でも彼らにはすっ飛ばす「仕組み」がない。当たり前に考えてしまうのだ。これは考えるなという方が無理だ。

もしあなたの友人が全く知らない人を「こいつの友達になってくれないか?」って相談してきたらどうする。「仕組み」が出来上がってるにも関わらずつくる作業をしないといけない。無理だと断るだろう。友達は「なる」ものだから頼まれてなるものじゃない。その通りである。この人たちにとって利用価値の判断はもうすでに無視したいことなのである。そんな判断をしていたら嫌な部分が目につく。嫌な思いをすることになる。「仕組み」が出来上がっているのにわざわざつくることをしたくないのだ。

「無意識」にできる人は「意識的」にわざわざものごとをしたくない。会社とかでも「仕組み」が出来上がってたらその「仕組み」に乗ってたいだけの人がいる。その「仕組み」の意味も考えずにルールだからというような言葉で聞く耳を持たない。ただ「仕組み」の更新は必要だ。「無意識」にホームランを打てる選手が練習を怠っていいはずがない。「意識的」に素振りをして「仕組み」の再確認をする。どういう「仕組み」か理解しなければならない。別に友達関係の「仕組み」なんて更新しなくていいかもしれない。人生100年で大きく更新が必要となることもないだろうし。しかしだからといってその「仕組み」を強要してもうまくいくはずがない。つくり方を理解しないといけない。このつくり方をわかっている人はどのくらいいるのだろうか。そして早くから「仕組み」をつくることができなかった人は今後どうすればいいのだろうか。その人たちは今後の人生で友達の利用価値を享受できずに生きていくのだろう。もちろんデメリットを受けないというよさもある。しかし早々にこの利用方法を放棄した人生はいかがなものだろうか。